読者0太郎のブログ( ᷇࿀ ᷆ )

徒然なるままに…型月作品に関する考えを述べる

(【推しの子】)のアニメをリアタイしなかった過去の自分を殴りたい

皆さんは推しの子という作品をご存知だろうか。

 

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集英社の青年向けの週刊誌

ヤングジャンプで只今連載中の超人気作品。

私はヤンジャンよりジャンプ派なのであまり詳しくはないが、つい先日1200万部を突破したとニュースになったのは記憶に新しいと思う。

私が推しの子に出会ったのはジャンプラのTOP画面で見つけたのが最初。読む前のイメージは推しのアイドルの子供に転生して人生勝ち組笑い止まらんガハハとかそんな話だろ。はぁ〜つまんな。

という訳分からん偏見に満ちたものであり全く読む気がありませんでした。アニメも特に興味がなく一度も見ることなく1期が終わりました。

しかしTwitter上でのヒョロワーの評価はめちゃくちゃ高く、否定的な意見も皆無。

段々私は気になってきました。そして1週間半前、先っちょだけならええやろとアニメ1話だけ視聴しました。え!?1時間半!?なっが!しかし終わってみれば体感1分。そしてその内容は…衝撃のラストは頭蓋をハンマーで叩かれたような錯覚を私に与えました。

気がつけば私は漫画を全巻購入して3周、アニメは2周していました(今アニメ3周め)

鉄は熱いうちに叩け。ハマりたてホヤホヤのこの想いを文字にぶつけようと思う。この先は、漫画やアニメのネタバレてんこ盛りなので踏みたくない方はブラウザバック推奨です。

 

 

 

 

【推しの子の魅力】

それはやはり、星野アイでしょう。

推しの子という物語は星野アイの衝撃的な死で幕を開けると言っても過言ではないくらいアイの死が今後の展開にも登場人物にも多大な影響を与えています。

その証拠にアニメ第一話はアイの死がクライマックスでその後ルビーとアクアの制服姿が描写され、さぁ推しの子という物語はここからが始まりだ!と言われているような演出になっている。1話が1時間半の超大作になったのはそこをプロローグとしてきちんと区切りたいという想いがあったのかなと私は思う。

その星野アイのアイドルとしての「光」の部分はプロローグにて大いに語られているが、その要所要所に「闇」の部分が散りばめられている。アイがゴローに語った嘘は愛。万人が好きなる完璧で可愛いアイドルを演じることでファンを幸せにする。嘘をつくことが彼女にとっての愛。これは彼女の闇の部分ではあるがあくまで表層であること。

光が強ければ強いほど映し出される影もまた濃い。彼女には読者やアクアやルビーも知らない深い闇がありそれが全て明かされる前にアイは最期を迎える。

面白いのはアイという人物はそこで物語から退場するけど、話が進めば進むほど、アイという人物の解像度が上がっていき彼女の存在がより際立っていく展開。これが何とも絶妙で123話の後にまた1話から読むとアイが全く違う人物に見えてしまうくらい。推しの子は全体の尺でみるとアクアとルビーの活躍が大半を占めるが、きっと最後までこの物語は星野アイの物語なんだなとそう思わずにはいられない。私も彼女の光にあてられてるのかもしれない。

この手法に近いのは最近の作品だと勇者の死をきっかけに物語が始まる葬送のフリーレンあたりか?

私はこの手法がとてもだいすちでフリーレンにもドハマりしたので推しの子にハマるのも自明の理だったのかもしれない。

 

 

【推しの子のアニメ化について】

アニメ1話を視聴してあっこれは神アニオリを入れてくるアニメだなと直感で分かり、すぐ漫画を全部先に読んでからアニメ1話を再度視聴しました。(原作と比較したいオタク)

漫画では後々の伏線にはなるものの話がぶつ切りと感じてしまう「15年の嘘」制作の裏側インタビュー的なやつはカットされ、一方でアイや他のキャラの心の動きを描写するのに心血が注がれているように思える。作画が素晴らしいのは勿論だが、特に目の作画に拘っていて、これは私の解釈だがとんでもなくオーラのある千年に一度のアイドルの素質。これを絵で表現するのはただ可愛く描くだけでは足りない。原作66話で鏑木Pが言っていた可愛さの説得力。私は特別に可愛いという嘘を信じさせてくれる説得力。

これを象徴するのが星の瞳なのではないかと。

だからアニメ化にあたって星野アイは他とは違う特別な存在なんだよと視聴者に納得してもらうために瞳の星が輝くような演出を入れたのではないかと。原作2話の壱護社長の台詞「うちのアイはまじもんの嘘つきだそ」から始まるB小町のライブシーン。漫画だと見開き1ページを使っておりかなり力を入れて描かれていることが分かる。が!アニメだとアイの瞳のアップそこに吸い込まれるような描写からこのために作られたオーイシさん作曲のサインはBが流れる。漫画の1000万倍の躍動感で踊るB小町もといアイ。何度みても鳥肌が立つ完成度。軽々と原作を超えてくるな!

そしてこの瞳の異常なまでの演出の誇張が、アイの最期、完全に瞳から光が消えた時のどうしようもない絶望感を際立たせていた。原作未履修アニメ初見の私を感情のジェットコースターに乗せるのヤメロォォン!!!!

 

あとアイの母としての成長を描く手段としてアニオリ演出が上手く使われていて特にアクアとルビーの額にキスをして「いってくるね」と言うシーン。

ここは、最初は子供の名前すら間違えてたアイが母として子供に対する愛情が芽生え始めてることを伝えたいシーンなのかなと私は解釈しており、後のアイの「愛していると言ってしまうとそれが嘘だと気付いてしまうのが怖い」という独白から察するとあそこは本当は「愛してるよちゅっいってきます〜」くらいの気持ちが込められてそうだなぁとか妄想が捗った。

 

そしてそして!

推しの子のアニメ化で省いてはいけないのは声優陣の演技力の高さ。高橋さんのアイは言わずもがな完璧を超えた完璧。古参の原作ファンはどう感じるか分かりませんが、あの飄々したアイの喋り口を高橋さんが完全再現し、かつ声質もマッチしていてまんまアイでした。更に度肝抜かれた演技で言うと、私の推しの子である有馬かなを演じてる潘さん。アニメ1話の「問題大ありよ!」からの泣きのシーン。私の第一声「どこからそんな声出るの?」でした。潘さんによると喉の中にイルカを飼うイメージだそう。うーん分からない。

そして一番凄いのは有馬かなが役者として演技してるところと有馬かなが素で話してるところとでは演技のトーンが明確に違うこと。

それを素人の一視聴者の私にも分かるように演じてる潘さんの演技力の高さ。脱帽っす。

個人的に演劇編の有馬かなの振り切れたつるぎの演技がバカ好きなのでアニメ2期でどうなるか期待。あとアクアが感情演技を引き出すために妄想した実はアイは生きてました!わーいめでたしめでたしのシーンでバカ泣きしたのであのシーンのアニメ化があったら多分原作超えると思う。そう思わせる凄みがこのアニメ製作陣にはある!!!!


【推しの子の今後の展開について】

今推しの子は一切の情を捨てた完璧冷徹アクたん(なりきれてないけど)がアイの半生を描いた映画を制作するため奔走する映画編の真っ只中。目的はアイを死に追いやったとされるカミキヒカルを断罪するため。

そしてルビーに自身がゴローであることを明かし遂にお互いが転生者であることを知りルビーの瞳の黒い星が消えた神回が123話。

さぁここからどうなるのか。

 

まずカミキヒカルについてですが2人の父親であることにはこれまでの展開から間違いないですが、リョースケにアイの住所を教え彼を扇動しアイを殺させたのかはについてはまだハッキリとは分かっていません(憶測の域を出ていない)

ただアクアの人読みのうまさ、人を動かす才能(扇動する才能とも言える)はカミキヒカルがそうゆう人物であるのなら、彼の才能がアクアに受け継がれていることにしっくりきます。

 

しかし、カミキヒカルが黒幕で彼を殺してはい復讐おしまいと言うにはあまりに不可解な点があります。

まずアイがアクアとルビーに残した2枚のDVD。そしてアイが死ぬ直前まで撮っていたB小町のドキュメンタリー。これらが「15年の嘘」の元になっています。

五反田監督は原作111話でアイからDVDを渡された時に、「なぜアイは亡くなる直前に俺にDVDを託したのか」と言っています。

まるでアイが自身の死を予期していたようにも読めます。

ここで少し長くなりますが語らせてください。

アイは嘘吐きです。

原作8話で「私は嘘吐き。考えるより先にその場に沿ったことを言う。自分でも何が本心で何が嘘なのか分からない」とモノローグで語っています。これは彼女が幼少期から日常的に嘘をつき続けてきた証左であると私は感じました。

8話の壱護からスカウトされた時のアイの過去語りで殴られるより施設の方がマシ発言や小説45510では母が投げたガラスが白米に入ってそれがトラウマで今でも白米を食べることが怖いというエピソードや、好きなタイプ?私をあまり怒らない人がいいかな、私しょっちゅうやらかすしなどの台詞からも母から日常的な虐待を受けているのは明らかで、アイはその経験から人に嫌われることを過度に恐れており、嘘をつくことが彼女の処世術となっていたのかなと思います。因みにアイが雑誌や配信での質問に対して秘密や内緒と返すことが多いのはその答えを言ったら嫌われるかも?完璧で無敵のアイドルという嘘を演じる上でノイズになるのであれば言わない。という彼女なりの嘘は愛を体現してるのかなと。

原作29話でアクアはアイのことを何が本当で何が嘘か最後まで分からなかったと言っている。彼女はアイドルとしてのアイ、母としてのアイ、星野アイとしてのアイなど何重にも仮面を被っており、15年も隠し続けてきたその想いはもう決壊寸前のところまできているのでないかと小説45510を読んで痛感した。本当の自分を知って欲しいそれでも好きと言って欲しいと本音をこぼした復帰後の配信…B小町の初期メン(もしかしたら初めて出来た友達だと本人は思っていたのかも?)にあてた仲直りしたいという本音を吐露した非公開ブログ。これらは彼女のささやかで精一杯のSOSだったのかもしれない。

そのSOSから4年、原作8話ではB小町の武道館公演が決まったことが明かされる。しかしアイの台詞「私が売れるとみんなが喜ぶ。だから私も嬉しそうにする」武道館ライブという偉業達成に然程興味がないようにも見てとれる。更にはスキャンダルはあかん!父親に会おうとするなよって壱護に言われても会おうとしてるし。

私はもうアイは自身を偽りながらアイドル活動をしていくことに限界を感じており、アイドル活動よりもルビーとアクアの母親として生きていくことに舵をきってるように見えました。元々父親に会おうとするのも2人の勘違いを正すためだったし。

更に深掘りすると、原作110話で五反田監督に「本物の私を撮ってください」と言っていた時アイの瞳の星が黒くなります。作中アイの瞳の星が黒くなるのはここと原作8話で自身の過去語りをするシーンのみ。窃盗で捕まった母が釈放されても自分を迎えにきてくれなかったんだぁと言っているシーン。ここは原作は白い星なんですがアニメだと星が黒く描かれておりアカ先生意図してると思います。この2つから言えるのはあの黒い星はアイの何重にも被った仮面の奥底の本当の自分。偽らざる本物のアイ…通称:黒アイだったのかなと。

アイは五反田監督のドキュメンタリー映画のなかで本当の自分を曝け出そうとしてたのではないか?そしてそれによって自身のアイドル生命は終わるかもしれないことも承知で。そしてその前に自身が殺されるリスクがあるかもしれないということも。でなければいきなり腹ぶっ刺されて恨み言の一つも言わず、あまつさえ犯人に対し君のことだって愛そうとしてるなんて言える?ここが最初に言った不可解な点です。

だからもしこのドキュメンタリー映画がおじゃんになってもDVDという形でルビーとアクアに残し、2人が自身の後を引き継げるようにした?壱護社長はアイドルを守る立場だから自身が破滅するこんな企画は絶対認めない。"本物"を撮りたいと言っていた五反田監督だからこそDVDを預けた?

後半は考察というより半ば妄想に近いですが、アクアはDVDを見てアイの遺志を汲み取りつつ自身の復讐も同時に完遂できるよう脚本を弄り「15年の嘘」の脚本を完成させたのかもしれません。

これは深読みしすぎかもしれませんが、アイが死に際に2人に言った台詞。「授業参観とかさールビーのママ若すぎない〜とか言われたい」これもう2人が隠し子だということを前提で話してなくて、アイは2人の母親として生きていくことを決めている。この妄想をした後にこの台詞聞くともうそうにしか聞こえなくて余計に辛い。

 

「15年の嘘」この映画には黒アイがこれでもかというくらい詰まっている。

そこにどうカミキヒカルを断罪する内容を入れ込むのかまでは考察できませんでしたが、DVDには父親が誰であるかまでは言及されていないと思うし(だとしたらアクアが父親探しに奔走する意味がない)きっとそこはアクアの脚色が入るのでは?と思う。映画編どう着地するのか楽しみです。

 

【アクアは最後に誰を選ぶのか?】

これは推しの子最大の難題です。

アクあか

アクかな

アクルビ

前世の関係を鑑みるとアクルビを推したくなるのが人情というもの(法律は無視)

しかし私はそこに一石を投じたい。

 

最後にアクアが選ぶのは有馬かなであるということを!!!

これは私の推しの子が有馬かなであるため、かなり偏った考察になっていることを最初に謝罪しておきます。

 

まずアクアは有馬に恋愛感情を抱いてます。これは誰も覆せない純然たる事実です。

アクアと有馬の境遇って似ていて

アクアも有馬も役者として売れるために子供の頃から頑張ってきました。アクアは芸能界に潜り込むための手段としていう打算的な面もあったと思いますが原作13話で五反田監督が役者になりたいって顔に書いてあるぞって言われるくらいには演技が好きなんだと思います。

しかしアクアは自身に役者としての才能の無さを痛感し早々に諦めてしまいます。

有馬かなも子役時代は売れたものの子役としての賞味期限が切れて売れない闇の時代が続きます。お互い芸能界で苦しみもがいた同士のようなもの。しかし両者には明確な違いがあります。有馬かなは夢を諦めませんでした。

闇の時代が続いても役者の道を諦めず芸能界に食らいついてきました。その結果掴み取った主役の座。それが今日あまというドラマのヒロイン。しかし周りの役者たちは素人同然。どう考えても有馬かなのキャリアアップには繋がらない現場。しかし彼女はどこまでも真摯に作品と向き合い、せめて観れる作品にしようと最後まで努力する。役者の道を早々に諦め裏方に転身したアクアには彼女が眩しく写ったのでは?と思います。アクアは有馬のためにメルトの演技力を底上げし有馬に本気の演技をするように促します。アクアはこの瞬間まで有馬の本気の演技を観ていなくて、観た瞬間のアクアの顔に光が当たるアニオリ演出がなんとも印象的でした。それは決して口だけではない。この10年間一度も稽古を怠らなかった努力の子。その証左がこの演技だけで分かったのだと私は解釈しました。アクアはこの瞬間に有馬に恋愛感情を抱いたのかなぁ。まぁこれは自分の解釈で明確に描写されてるわけではないのですが、決定的だったのは原作30話。恋リアのあかねがアイの完コピをした時の自身の気持ちの正体を探るため有馬を呼び出しでキャッチボールをしたシーン。しかし、アクアはそのことを有馬に相談したわけでもなくただキャッチボールをして会話しただけ。それなのにアクアは黒川あかねに対する感情はそうゆうのじゃないと勝手に自己解決しちゃってます。これは恋愛感情を有馬に持っていて彼女と会ってうんうんやっぱ好きってこうゆう気持ちだよね。あかねに抱いてる感情とは違うよねって再認識したっていう解釈以外なくない?異論は認めん!!!そしてアクアはその後アイ殺しの犯人が既に死亡したと勘違いし復讐に囚われた人生を見つめ直す機会を得ました。そこで有馬を選んでも良かったのですが、原作83話でMEMに語った通り、有馬のアイドル活動に自身が邪魔になるという理由から彼女と距離を置いています。アクアは復讐に囚われてる時は感情をあまり表に出しませんが、復讐という縛り抜きだとアイのような事が有馬に起こってはいけない。有馬に対する感情の入れ込み用がパないです。

しかし、その後実は犯人はカミキヒカルであることをあかねが突き止め、甘さを完全に捨てたアヴェンジャーアクたんが爆誕

距離を置いていたはずの有馬を利用するためにまた馴れ合い始める。

しかし、それは本意ではないことが原作108話のアクアのモノローグ「利用できるものは全て利用する。"それがたとえ"…有馬だろうと」この言葉で分かります。アクアはあかねを利用することはあってと有馬を利用することなんて今まで考えてもいませんでした。アクアにとっては有馬は最後の砦。それが利用せざるおえないところまでアクアは復讐に囚われてしまっている。アヴェンジャーアクたん恐るべし。

これで復讐という縛り抜きだとアクアが有馬を好きなことは疑いようのない事実だということが分かって頂けたと思う。

有馬は夏のライブを最後にB小町を卒業する。

メタ的なことだが原作38話の有馬の台詞「あんたの推しの子になってやる」この伏線を回収する時がきました。しかし、映画の公開はまだ先なのでアクアの復讐になんらかの区切りがつくまで待つ余裕はなさそうなので一体どうなるやら。

でも星野アクアとしての推しの子は有馬かなしかいません。彼女はアクアにとっての"光"です。

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復讐に囚われた彼を救えるのは彼女しかいない。そう確信してます。

 

おまけ:因みにアクアの中にあるゴローの推しはさりなであることに異論はありません。しかし原作30話でアクアはゴローとアクアの境界線がなくなってきていると言っています。これはアクアとしての身体とゴローの精神が統合してアクア寄りの嗜好になっているということ。アクアの嗜好は有馬を好み、残るゴローとしての精神はさりなちゃんを好む。

しかしこのさりなちゃんへの想いも突き詰めれば強い共感性と捉えることもでき恋愛感情とはまた違うのかなと個人的には思います。ゴローも母親の愛を知らずに育ったので、さりなちゃんに自分を重ねていてもおかしくはありません。

この点にもおいてもアクルビの成立は難しいと考えます。次にアクあかですが、最初はあかねを利用するために近づいたアクアですが、原作78話であかねは利用されてると知りながらもそれでもアクアの力になりたい。君は誰よりも優しいから。…こんなん誰でも好きになってしまうやろがー!ムーヴでアクアは救われ本当に付き合うことになります。しかしこれも原作97話を読むとアクアはあかねに半ば依存の傾向があったことがわかります。アクあかもやはり成立は難しいということがわかります。

 

うーんやっぱアクかなしか勝たん✊😭

 

以上、ここまで駄文にお付き合い下さった読者の皆様ありがとうございました。